ラーンナー王朝 タイの歴史③ 

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概略

ラーンナー王朝(อาณาจักรล้านนา)は、1292年 – 1775年の約500年間続いた王朝で、スコータイ王朝の少し後に建国され、スコータイ以北の地域(チエンマイ県、チエンラーイ県、ラムプーン県、ラムパーン県、ナーン県、パヤオ県、プレー県、メーホンソーン県)に存在したタイノイ族の王朝。

チエンマイに都を置き、スコータイ王朝と後のアユタヤ王朝、更に後のトンブリー王朝と同時代に存在した。ラーンナー王朝は、この4王朝と現在のチャクリー王朝と合わせて、タイの5大王朝に数えられる。

名称の「ラーンナー」とはタイ語で「100万の田」の意味となり、その名の通り肥沃な大地で農業を中心とする国家で、アユタヤへは、樹脂、蜜、象牙、サイの角、カテキュ(黒色染料)、スオウ(蘇木、赤褐色染料)、シカの角や皮革なども輸出され、貿易により大きな富を蓄えた。

宗教は上座部仏教であり、文化的にもモン族から多大な影響を受け、ラーンナー文化の源流となった。

最盛期の勢力範囲はタイ北部全域からビルマ北西部、ラオスのサイヤブリー県、雲南省最南部(タイ族自治州)まで及んでいたが、1558年より約200年間に及びビルマの支配下となる。
その後開放され、チャクリー王朝の朝貢国となり存続するが次第に吸収され消滅した。

歴史

ラーンナー王朝の建国前史

グンヤーン王国(อาณาจักรหิรัญเงินยาง:638年-1292年までのタイ北部、チェンラーイ県の北部にあった王国)が、1262年クメールの支配から独立すると、1281年には君主マンラーイが南シナ海への貿易港路開拓のため、チャオプラヤー川上流のピン川にあった「ハリプンチャイ王国」に侵攻し、首都(現在のランプーン)を占領。
1292年にハリプンチャイ王国を壊滅させた。
マンラーイ(在位1261年 – 1311年※グンヤーン王国時代を含む)は国名を「ラーンナー王国」へと改め王位に就き、ラーンナー王朝の成立させた。

マンラーイ朝時代

黎明期

1294年、マンラーイ王はピン川上流のウィエンクムカーム(現在のチェンマイ県庁所在地があるチェンマイ郡の南部のサーラピー郡)に還都、2年後の1296年にチェンマイ(チェンマイ郡)に遷都した。
マンラーイは内政を安定させるためモン族の法典を参考に「マンラーイ法典」を作成した。
この法典は国の基本法典とされ、これにより統治・刑罰・取引などが行われ、タイが近代的な基本法典を整備するまで法典の権威となっていた。
マンラーイは晩年、元からの侵攻に悩まされ、1311年落雷によりマンラーイが崩御すると、ラーンナー王国はげんの朝貢国となり、後の明の時代と合わせて約100年間続く。

1325年に3代目のセーンプー王(在位1325年 – 1334年)は、グンヤーン王国の都であったチエンセーン(チェンラーイ北部)を再構築し還都、防衛拠点を築いた。
続く4代目のカムフー王(在位1334年 – 1336年)はパヤオ王国(パヤオ県パヤオ郡)とプレー王国(プレー県)を占領することに生涯をかけた王で、カーオ王国(ナーン県)の王と同盟しパヤオ王国を支配下とすることに成功した。

5代目のパーユー王(在位1336年 – 1355年)の時代、チェンセーン以北には安定がもたらされていたと考えられ、再びチェンマイに還都する。彼は信仰深く仏教を積極的に保護した王として知られ、父の骨を埋葬するためチェンマイにある有名な寺院「ワットプラシン(ワット・リーチエンプラ)」建立した。
更に6代目のクーナー王(在位1355年 – 1385年)の代には国内は非常に安定し大いに栄え、仏教保護も積極的に行われ、スコータイからは長老を招き「ワット・スワンドーク(ワット・ブッパラーム)」を建設し他国からの仏教留学を推進、チェンマイは仏教の一大中心地となった。

繁栄期

国力を付け勢力を増していてラーンナーは、1404年と1405年、2度に渡ってチン・ホー族(雲南のムスリム)の侵略に遭い、チェンセーンを包囲されるが、サームファンケーン王(在位1402年 – 1441年)は3万の兵を集めホー族を攻撃し追い返えすことに成功。
これによりラーンナーは約100年続いた明(元)の朝貢国から開放された。

なおサームファンケーンの時代に、今はワットプラケーをにある「エメラルド仏」が発見されたとされている。その時の逸話は以下の通り。

1434年、チエンラーイのある寺(チエンラーイにあるワットプラケーオがこの寺であったといわれている)の仏塔が落雷で破壊されたとき、その中から漆喰でできた仏像が見つかった。
しばらくして、ある仏僧がその漆喰の仏像の鼻がもげているのを見つけ、よくよく調べると中にヒスイの仏像が入っていたといわれている。
仏像発見後、サームファンケーン王は白象をもってエメラルド仏をチエンラーイから首都のチエンマイまで運ぼうとしたが、三度試しても象がラムパーンに引き返すので、王はチエンラーイにエメラルド仏を運ぶのを止めた。
その後、ティローカラート王の手により、エメラルド仏のチエンマイへの運び込みは1468年にようやく成功した。

エメラルド仏

ティローカラート王(在位1441年 – 1487年)はサームファンケーン王の第6番目の息子であったがクーデターを画策し、王位を簒奪することで8代目の王位に就く。
そのため国内は一時混乱したがティローカラートはまもなく、消滅したスコータイ王国より分立したプレー王国(プレー県)とカーオ王国(ナーン県)を攻撃し、1443年プレー国王を帰順、1450年ごろにはカーオ王国も帰順させた。
1451年には、ピッサヌロークの国主プラヤー・ユティサティエンがアユタヤ王国から離反しラーンナーに帰順した。
その後、何度かラーンナー王国とアユタヤ王国との戦争(アユタヤ・ラーンナー戦争:1456年 – 1474年)が行われたが、1474年ラーンナーはアユタヤへ使者を送り、友好関係を作り戦争は終わりを迎えた。

この両国の戦いは同時代のアユタヤ人に影響を与え、この戦争の様子を描いた文学作品『リリット・ユワンパーイ(ลิลิตยวนพ่าย)』を生み出した。

1480年、後黎朝(現ベトナム)の黎聖宗(レ・タイントン)がラーンサーン王国(現ラオス)に侵攻し国王を殺害、ティローカラートは、このときにラーンナーへ逃れて来たラーンサーンの王子パヤー・サイカーオを保護し、パヤー・サイカーオを追ってラーンナーへ侵攻してきた黎聖宗を撃退した。
この後パヤー・サイカーオはラーンサーンの王位につき、ラーンナーとラーンサーンの間に強固な同盟関係が結ばれることとなる。
また、この戦いに勝利したことにより、ティローカラートは明から報奨を受け取っている。

内政に於いてティローカラートも仏教保護に努め、スリランカ式の仏教(上座部仏教の起源と言われる)を導入し、王自身も出家している。ワット・パーデーン、ワット・パーターン、ワットチェットヨートなど多くの寺院も建立された。
1468年にはラムパーンから「エメラルド仏」を運び出すことに成功しワット・チェーディールワンに安置した。

11代目のケーオ王(在位1495年 – 1525年)も信仰深く、ブッタの聖髪が納められていると言われる「ワット・プラタートハリプンチャイ」に毎年喜捨を行うなどした。
ラーンナーでは多くの仏僧学者が誕生し、仏教を中心とした文学、歴史、天文学などが花開いたが、晩年はケントゥン(チェンラーイ北部のミャンマー領)に出兵し敗北。
ラーンナーは多大な損失を被り王朝衰退の原因を作ることとなった。

衰退期

ケーオ王以降、国王の威信が衰退し官吏らによる政治が行われるようになったラーンナー王国は、王位を巡って、クーデタや王の暗殺などが起きるようになり国家は衰退していった。

1558年メーク王(1551 – 1564年)の時代、ラーンナー王国は領土拡大を狙ったタウングー王朝(ミャンマー)のバインナウン王の侵攻に遭いラーンナー王朝は独立国としての終焉を迎えた。

バインナウン王はその後、1569年に難攻不落といわれたアユタヤ王国を兵糧攻めにし陥落させ(第二次緬泰戦争:1563年 – 1564年)、タイ全土とラオスを含めた強大な王国を築き上げた。

ビルマ占領時代

バインナウン王によって、ラーンナーはタウングー朝の属国となったが、マンラーイ王家の統治は許された。

しかし副王として統治を継続したメーク王だが、バインナウン王が要請したアユタヤへの軍事行動への参加を拒否したことで解任され、バインナウン王はマンラーイ王家のウィスッティテーウィー(พระนางวิสุทธิเทวี:1564年 – 1578年)を女王として任命した。

彼女の死後、バインナウンは息子の一人であるノーヤターミンソーナウラタ・ミンソー(ノラトラ・ミンソシ)をラーンナー副王に任命し、約300年続いたマンラーイ王家の統治は終わりを迎えた。
彼女を含めいくつかのマンラーイ家の遺灰は、チェンマイの旧市街にある「ワット ローク モーリー(วัดโลกโมฬี)」の仏塔に埋葬されている。

バインナウン王の死後、タウングー朝は国内は各地の有力者が乱立し分裂、それと共にラーンナーも台頭してきたナレースワン(アユタヤの王)との間で一時混乱する。

しかし、ナレースワン王の死とタウングー朝の混乱が収拾されたことで、再びビルマの統治が強まり、属国としてのラーンナー王朝は、1774年タークシン王の活躍するトンブリー朝の時代まで続いた。

チェットトン朝時代(チェンマイ王国:นครเชียงใหม่)

当時ビルマ・コンバウン王朝の支配下にあったが、コンバウン王朝は中国との戦いに疲弊しラーンナー地域に対する支配力を弱めており、ラーンナーでは重税にたえかねた民衆らが蜂起するなど、混乱期にあった。

1730年にはラーンナー地域における主要都市の一つであるラムパーンで反乱があったが、猟師であったティッパチャック(チェットトン家の始祖でカーウィラの祖父)はこの反乱にビルマ側の将校として参加し反乱を鎮圧、ビルマに帰順した。
これによりティップチャックは1732年よりラムパーンの国主となった。

その後、ティッパチャックの息子カーウィラはビルマに反旗を翻す事を決意し、1774年ランパーンの国主であったカーウィラは、チャーバーン(将軍?)と共にタークシン王に援軍を求め、ビルマに支配されていたチエンマイを陥落させた。

他の地域ではビルマの支配は続いていたが、首都が陥落したことでラーンナーは新しい時代を迎える事となり、ラーンナー王朝が事実上終了した。

その後、チャーバーンはワット・プラタートハリプンチャイで正式にチエンマイの王位に就き、カーウィラはランパーン県の知事を命ぜられた。
この際、カーウィラはタークシンに姪を捧げ、また妹をチャオプラヤー・スーラシーと結婚させ、トンブリーないしチャクリー王朝との連帯関係を築いていた。

チエンマイは混乱と度重なる戦争で廃墟と化しており、深刻な食糧不足に見舞われた。
チャーバーンは仕方なく1776年ラムパーンに遷都するが、それを知ったタークシン王は怒り、1779年チャーバーンは投獄され獄死する。
後にタークシンは乱心し処刑されるが、その時すでに、兆候が現れていたのかもしれない。
タークシンの乱心が顕になると、部下であったチャオプラヤー・マハーカサット・スック(後のラーマ1世)に殺害された。

1782年ラーマ1世がチャックリー王朝の初代の王として即位すると、チエンマイ王にはカーウィラが指名された。
チエンマイの王となったカーウィラは、チエンマイが廃墟と化していたため、もっぱらラムパーンに住み続け、減りに減った人口の回復に没頭した。
一方、未だビルマの影響下にあったチエンセーンやケントゥンを攻撃し逃げてきた人々を保護、あるいは強制移住させる方法で、1813年までに、ラーンナー北部の諸都市はほとんど廃墟とした。
このような方法で人口を増やす方法は、カーウィラだけでなく、後に続く王達も行った。

1796年、カーウィラはチエンマイを再建、マンラーイ朝における古い儀式を復活しレガリア(正統な王、君主であると認めさせる象徴となる物品。また所有する特権)を定め、仏教を保護し、寺院を建て自らの威信を高めた。
またカーウィラは、1805年にラムプーンも再建し、チエンマイ、ラムパーン、ラムプーンの国主の座を自分の兄弟達で独占した。
その後、チェットトン王家出身の人物によりチエンマイ、ラムパーン、ラムプーンなどの国主は事実上世襲され、チャクリー王朝の覇権を認めた上での統治が認められた。

チェットトン王家の権力は、ラーマ5世(1868年 – 1910年)がチャクリー改革と呼ばれる行政改革を行ってから徐々になくなっていった。

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