スコータイ王朝 タイの歴史②

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概略

スコータイ王朝(ราชอาณาจักรสุโขทัย)は約200年間、1240年頃 – 1438年まで続いた王朝。

現在わかっている限り小タイ(タイノイ)族最初の国家となる。
短い王朝であったが、最初のタイ文字が考案され、タイ文化の中心にある上座部仏教が花開いたのもこの頃で、現在へとつながる「タイ国」の原型を築いた国家であるため、今でも多くのタイ人にとってはルーツとなる王朝。

3代目のラームカムヘーン王の時代に大きく反映するが、次第にアユタヤ王朝の勢力に押され、吸収され消滅した。

スコータイ王朝のはじまり

約300年の長い間、クメール王朝の支配下にあったラヴォ王国でしたが、この頃になると、強大な力を誇っていたクメール王朝は、チャンパ王国(ベトナム南部)との戦争の長期化で疲弊していて、1220年にクメール王朝のジャヤーヴァルマン7世が崩御すると激しい後継者争いが行われ、辺境の国々に対する支配力が急速に衰え始めた。

その時を逃さず、ラヴォ王国のバーンヤーン(現在ピッサヌローク県ナコーンタイ郡)の領主をしていた小タイ族のポークン・バーンクラーンハーオがクメール人の支配者を追い出し、スコータイに小タイ族の王朝を建てました。
バーンクラーンハーオは王位に就くと名を改め「シーインタラーティット王(พ่อขุนศรีอินทราทิตย์:在位1220年 – 1238年)」と称した。※在位が1220年からとするとスコータイの始まりが1240年頃とされているので合わない?
これがスコータイ王朝の始まりです。
その後、スコータイ王朝は約200年間、9代にわたって続きました。

スコータイ王朝が建国された当初の領域は、王都のあるタイ北部のスコータイ県を中心とし、その東部(ピッサヌローク、ウッタラディット)と南部(カムペーンペット、ナコーンサワン、チャイナート)の領域でした。

シーインタラーティット王
th:ผู้ใช้:Omogoki – แหล่งที่มา : จาก Image:พ่อขุนศรี.jpg ถ่ายโดย th:ผู้ใช้:Omogoki, パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=3165028による
スコータイ建国当初の勢力図
緑:スコータイ、黄:ラヴォ、紫:パヤオ、青:ラーンナー

ラームカムヘーン大王

スコータイ王朝の黄金期は3代目の「ラームカムヘーン王(พ่อขุนรามคำแหงมหาราช:在位1279年頃 – 1298年)」の時代です。

ラームカムヘーン王はその業績からタイ史上最高の王(タイ三大王)の1人に数えられ、大王(マハーラート:มหาราช)の尊称で呼ばれています。

ラームカムヘーン王は建国者シーインタラーティットの第三子であり、若い頃より武芸に達者であったとされ、北部にあったパヤオ王国(ガムムアン王)やラーンナー王朝(マンラーイ王)などの近隣国とは同盟を結びながら、大きく勢力を拡大し、スコータイを強国にした。

拡大した勢力範囲は、北部のプレー・ナーン・ラオス領ルアンプラバン、南部のカムペーンペット・ナコーンサワン・スパンブリー・ペッチャブリー・ナコーンシータンマラート、東部のピサヌローク・ペッチャブーン・ラオス領ヴィエンチャン、西部のメーソート・ミャンマー領東南部(ペグー・テナセリム・マルタバン)であった。

このミャンマー領のペグーは、スコータイの軍人だったワーレルー(マガドゥー)が、1287年ペグー王朝を建国し、臣従関係となる。

”元”との外交関係も築き、3度使節を派遣、元の陶工を連れ帰り、その技術をもとに独自の「宋胡禄(すんころく/サワンカローク)焼き」の製造が始まった。

ランカムヘーン王の文化の面での功績は、1283年、クメール文字を元にの最初のタイ文字を考案したことと上座部仏教を積極的に取り入れたことです。
ランカムヘーン王は、自らが仏教の教えを説くとともに、僧侶たちの説法にも耳を傾けたと言われ、スコータイ王朝時代に仏教は大きく広まり、タイ仏教の黄金期とも言われています。

ラームカムヘーン大王碑文

今でもタイ人にとって非常に重要な「ラームカムヘーン大王碑文(スコータイ第一刻文)」は1292年に作られたと言われるタイ文字で記された最古の碑文で、碑文には古代タイ文字であるラームカムヘーンの文字が使用されている。

この碑文は1833年に即位前のラーマ4世(モンクット)によって発見、解読され、類似する碑文も発見され、スコータイ王朝の研究が進展した。

碑文には、国王が国民全体の生活に気を配り、国民は民族に関係なく利益を享受したことが記されている。
王朝では商売の自由が認められ、故人の財産は全て子に相続された。
また、犯罪の被害を受けた国民は国王に直訴ができる機会が与えられており、国民の訴えに直接判決を下す国王の職務はチャクリー王朝が建国されるまで存続した。
碑文の中でラームカムヘーンは「ポークン(父)」と呼ばれ、温情主義に基づいた施政は、ラーマ9世(プミポーン国王)に代表されるように後世のタイ国王や政治家にも影響を与えた。

なお、ラームカムヘン王碑文は実は19世紀に近代国家タイというのを作るにあたってその正当性の構築のために発見者のラーマ4世が作ったという説がある。

スコータイ様式

スコータイ王朝では、アンコール・ワットに代表されるようなクメール建築を元にスリランカの様式を加えた「スコータイ様式」と言われるタイ独特の建築を確立させた。

仏像美術ではスコータイ仏と呼ばれる仏像が造られ、緩やかな女性的な曲線に特徴される、型に嵌った個性を許さない様式であったが、スコータイ王朝亡き後のアユタヤ王朝でも盛んに制作され、現在でもタイでは仏像というと一般的にこのスコータイ仏が想像されるほどで、現代のタイの仏教絵画などでも好んで描かれることが多い。

後の王たちとスコータイの衰退

しかしランカムヘーン王が崩御し、子であるルータイ王(在位1298年 – 1323年)が4代目の王として即位すると各地で離反が相次ぎラオス系諸王国やナコーンシータンマラートが服従を止め勢力を縮小させた。

ルータイ王の子である6代目のリタイ王(在位1347年 – 1368年)は、スコータイの勢力を回復させ、勃興してきたアユタヤ王朝と現在のラオスにあったラーンサーン王朝に対抗するため、都をスコータイからピッサヌロークに遷都。
アユタヤとの友好関係を維持し、スコータイの独立を保った。

また、リタイ王は仏法の研究を積極的に行いタイの代表的な古典文学でもある「三界経(ไตรภูมิพระร่วง)」著して、民衆の仏教理解を深めさせた。
また、王自身が規範となるために一時期出家した初めの王であり、この出家の習慣は、アユタヤ王朝から現在のチャックリー王朝へと継承され、現在も行われている。

リタイの子である7代目のサイルータイ王(在位1368年 – 1399年)の代、アユタヤー王国によってスコータイはカンペーンペットとピサヌロークに分割され属国となり、サイルータイ王はピサヌロークの王になった。

9代目のマハータンマラーチャー4世(在位1419年 – 1438年)が崩御するとスコータイ王家の血縁となっていたアユタヤ王朝のラーメースワン王子(後のボーロマトライローカナート王)が後を継ぐ形で、アユタヤ王朝に吸収され消滅した。

歴代王の家系図

①シーインタラーティット
 在位期間 1220年 – 1238年

②バーンムアン
 在位期間 1238年 – 1279年

③ラームカムヘーン
 在位期間 1279年 – 1300年

プーサイソンクラーム
 在位期間 1300年 – 1323年
 ※ 即位はしなかったがラームカムヘーン王崩御後、ルータイ不在のために代理統治していたといわれる。

④ルータイ
 在位期間 1323年 – 1341年

⑤グワナムトゥム
 在位期間 1341年 – 1347年

⑥リタイ(マハータンマラーチャー1世)
 在位期間 1347年 – 1368年

⑦サイルータイ(マハータンマラーチャー2世)
 在位期間 1368年 – 1399年

⑧マハータンマラーチャー3世
 在位期間 1399年 – 1419年

⑨マハータンマラーチャー4世
 在位期間 1419年 – 1438年


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