在タイ十数年になりますが、タイの歴史について調べたことがなかったので自分なりに調べてまとめてみました。
でも、実際調べてみると、スコータイ王朝誕生以前の歴史は、中国などの外国の文献しか残っておらず、不明なことがかなり多いようです。
現在タイ政府は、学校教育でスコータイ王朝以前の歴史も詳しく教えているようですが、国際的に認められているような内容でなく、神話的な内容もあるようなので、ここでもスコータイ以前の歴史は、大まかな内容のみにしようと思います。
タイの民族について
日本は一つの民族と一つの王朝が2000年以上も継続している特殊な国家ですが、タイは、地を治める民族が代わり、王朝が代わり変遷を繰り返してきました。
現在のタイでは、タイ族75%、華人系14%、マレー系・インド系・山岳少数民族となっていて、タイ族の多くは小タイ(タイノイ)族とクメール人、モン族(Mon)、モン族(Mmong)、ラーオ族(イーサーン人)などの混血で、華人や他の民族との混血も多い。
小タイ(タイノイ)族は、スコータイ王朝を建国し、後のアユタヤ王朝、トンブリー王朝、現在のチャクリー王朝の中心的民族で、元々中国の四川省・雲南省に住んでいたが、7-8世紀頃に争いに追われ南下し、現在のラオスを通ってタイに定住したと言われています。
ですが、タイ政府としては、愛国教育と言う立場からタイ国民を民族で分けることを控え、「タイ語話者=タイ族」として国民を統一を図っている。
タイの古代史
タイ東北部のウドーンタニー県「プープラバート歴史公園(อุทยานประวัติศาสตร์ภูพระบาท)」には紀元前4000年頃のものと言われる岩絵が存在します。
また、同県のノーンハーン郡には紀元前3000~2000年頃のものとされる大規模な遺跡、「バンチェン(バーンチエン)遺跡(โบราณสถานบ้านเชียง)」が発見されました。
1960年、地元の学校の教師たちが、周辺の村人によって拾われて日用品として利用されていた土器が、実は考古学的な遺産なのではないかと考えるようになり、同年タイ文部省が発掘を開始。
その後、この遺跡の重要性が徐々に明らかになり、1972年バーンチエンに国立博物館が設立された。
バーンチエン遺跡は中国やインド、中東地域などの他の文明と違った東南アジア独自の文明と考えられています。
土器には独特の幾何学模様があり、稲作や豚などの家畜が行われ、ガラスや、青銅器・鉄器などが使われていたことがわかっているが、文明の主は現在も不明だそうです。
バーンチエン遺跡は、1992年には世界文化遺産に登録されています。
扶南国(ふなんこく):1世紀頃 – 7世紀初め頃
タイを含めた東南アジア地域に国家と言われるものがいつ頃生まれたのか、最も古い東南アジアについての文献の記録は、3世紀頃の「呉」の官僚の報告書です。
それによると1世紀から2世紀頃に現在のメコン川下流域(ベトナム南部ーカンボジア)からタイの中南部(チャオプラヤーデルタ)にかけて、クメール(カンボジア)人かマレー人のいずれかによる「扶南(ふなん)」という名の国についての記述があり、それが現在考えられている東南アジアで最も古い王朝です。
※ 扶南は中国名で実際の呼び名は不明
3世紀ごろにはマレー半島北部まで広がり、最盛期の4世紀後半から5世紀にかけて、インド文化とヒンドゥー教と仏教、サンスクリット語が伝わってきて、多大な影響を受けた。
経済的には、インド・中国間の海上交易ルートの中継地として大いに栄えたと考えられ、ベトナム南部にあるオケオ遺跡の発掘の結果では、ローマ帝国などとも交易していたことがわかっている。
しかし、6世紀にはインド及び中国との通商の減少、王位継承をめぐる内紛もあって弱体化し、更に東のチャンパ王国(現在のベトナム南部)との抗争や属国であった扶南北部のチェンラ(真臘:しんろう)が力を付け南進し、628年扶南は滅亡した。
ドヴァーラヴァティー王国:6世紀頃 – 11世紀頃
扶南国の末期、6世紀頃から扶南国西部に当たるタイ中部には「ドヴァーラヴァティー王国」が成立していた。
これが現在のタイ国を中心とした地域に出現した最初の国家となるが、正確には王国というよりも都市国家の連合体だと言われる。
末期には、各都市を納めていた首領たちが力を付け、それぞれが独立国のような体制となるとともに、現カンボジアの「クメール(アンコール)王朝」が、勢力を拡大し消滅したと思われる。
同時期に存在したタイ国内の国家は「ラヴォ王国」「スワンナプーム王国」「ハリプンチャイ王国」更に北部には「グンヤーン王国」等がある。
ドヴァーラヴァティーはモン族(Mon)を中心とする支配体制であった考えられ、この時期に中国の雲南省辺りにいたタイ(小タイ)族は南下を始め、スコータイ王朝の時代なるに頃には中心的な民族となってくる。
ドヴァーラヴァティーは、川沿いの河川交通に適した場所に直径1kmから2kmの楕円形の都市をいくつも築き、チャオプラヤ川を利用して内陸部と南シナ海を結ぶ交易活動を行った港市国家でした。
勢力範囲はタイ東北部まで及んでいたと考えられ、メコン川支流のコーラート高原を流れる河川、チー川、ムーン川流域にも、環濠集落や製鉄跡がみられる。
中心となった都市は、バンコクの西50Kmにあるナコーンパトム県であったとの説が一般的だが、ウートン(スパンブリー県)やシーテープ(ペッチャブーン県)にも大規模な遺跡がある。
集落や都市には、仏像を安置した寺院や仏塔が建てられ、仏像や建物の特徴から上座部仏教が信仰されていたと考えられている。
また、チャオプラヤー川流域の遺跡では、石の法輪が見られ、6世紀から10世紀頃に刻まれたと考えられるサンスクリット語、パーリ語、モン語の銘文もみられる。
遺跡では銀貨も出土し、象や馬を交通手段として用い、主として農業や商業をなりわいとしていた。
なお、『日本書紀』に出てくる「覩貨邏国」とはドヴァーラヴァティー王国であろうといわれている。
はじめに紹介したが、ドヴァーラヴァティー王国は、都市国家の連合体であったと考えられ、ドヴァーラヴァティー王国に限らず、近世以前の東南アジアの国々の支配体制は「マンダラ論」と言われる、中央集権国家とは異なる複雑で特殊な構造であったとの説があるので紹介します。
マンダラ論とは、1982年にアメリカの歴史学者が提唱した、近世以前の東南アジアにおける国家の形態論である。
古代から近世にかけての東南アジアは、社会的地位は血筋だけでは決まらずに、常に権力の内部で血縁間抗争が行われていたため、世襲による巨大な王国は成立しにくく、権力者は常に実力を示し続けざるを得なかった。
しかし、それでは広域支配を維持することができず、権力の図式は、地方ごとにおける小さな主権、それをまとめる中規模な主権、更にそれをまとめる大規模な主権となった。
そしてその裾野は往々にして重複し、どこまでが中央の支配する領域か明確ではない重層的かつ多重的な権力による連合国家の形態がみられることとなった。歴史年表上で見る限りはどこかの王権に支配されていそうな都市が独自に中国に対して朝貢を行っていたり、現代人にはひとつの国家と認識される内部で都市同士が領域の主導権争いを行うなどの現象はこのシステムによって説明ができるとされる。
マンダラ論
このようなシステムにおいては、権力の頂点にある者が己のカリスマをヒンドゥー教の神格になぞらえるなどの傾向が見られ、ベトナム北部を除く「インド化された東南アジア」で広く観察できる。
当時を知る遺跡や寺院としては「シーテープ歴史公園」「ワット・プラパトムチェーディー」などが有名。
「シーテープ歴史公園(อุทยานประวัติศาสตร์ศรีเทพ)」はペッチャブーン県にあり、ユネスコ世界遺産として登録された総面積約4.7㎢大きな遺跡で、その多くはドヴァーラヴァディー王朝の古代都市と推測されています。
「ワット・プラパトムチェーディー」は大きな仏塔で有名なナコーンパトム県にある寺院で、その仏塔の基壇がドヴァーラヴァティー時代に造られたものと言われ、発見された銀貨にもドヴァーラヴァティーの名が刻まれているそうです。後に建て替えられた仏塔はタイで一番高く、世界最大ともいわれています。
ちなみにナコーンパトムは、「町(ナコーン)最初(パトム)」という意味になる。
スパンブリー県ウートン郡にも遺跡があり2025年にガラス張りの空中歩道が開通して遺跡巡りができるようになるらしい。
https://www.thaich.net/news/20230713br.htm
ラヴォ王国:648年 – 1388年
450年頃にラヴォの街が(現在のタイ中部のロッブリー県)建設され、勢力範囲をタイ中南部へ伸ばし、更に7世紀後半ごろには北へも拡大した。
950年からのクメールの支配時代を経て、アユタヤ王朝時代の1388年まで国家として存在したとされています。
宗教は、現カンボジアに位置するチェンラ王国(後にクメール王朝)によるヒンドゥー教や大乗仏教の影響が大きかったが、クメール支配時代を除き、主要宗教は上座部仏教であった。
使用言語はモン語と思われ、モン(Mon)族の国家であったと推測されています。
950年頃、クメールに占領され、1010年から約10年間、北のハリプンチャイ王国(現在のランプーン県)が何度もラヴォに援軍を送りクメール王朝と争ったが、1022年頃にクメール帝国に併合。
チャオプラヤ平原東部はクメール領となる。
ラヴォはクメールに同化され、宗教はヒンドゥー教と大乗仏教が主流になり、芸術や建築にも影響を受けた。
代表的なものとしてロッブリー市内にある12世紀末から13世紀初頭に建てられたと思われる、お猿さんで有名な「プラーン・サームヨート(พระปรางค์สามยอด)」がある。
1239年、スコータイのタイ族支配者がクメール領ラヴォ王国からの独立を宣言し、スコータイ王朝が生まれた。
スコータイ王朝が建国された当初は、スコータイ県を中心とし、その東部(ピッサヌローク、ウッタラディット)と南部(カムペーンペット、ナコーンサワン、チャイナート)の領域だったが、スコータイのラームカムヘーン王(1279年 – 1299年頃)の拡大政策によって、ラヴォは徐々に領土を減らし、やがて中心地であるラヴォとアユタヤへ後退した。
アユタヤ王国が建国された後、1388年にラヴォ王国はアユタヤに併合された。
なお、近年の歴史分析によると都が11世紀頃に南のアヨダヤに移り、これがアユタヤ王国に。
つまりラヴォ王国がアユタヤ王国になったと言われている。
ハリプンチャイ王国:661年 – 1292年
661年(750年頃とも言われる)に現在のタイ北部ランプーン県で、ジャーンマテーウィー女王がハリプンチャイ王国を建国。
このジャーンマテーウィーはラヴォ王国の王の娘といわれている
ラヴォ王国と同様、クメールによる侵略などがあったが、12世紀 – 13世紀初頭、非常に繁栄し、ランプーンを中心に寺院などの建設が多数行われた。
その後、1292年にグンヤーン王国のマンラーイ(後のラーンナー王朝の創始者)による侵略を受け壊滅した。
パヤオ王国:1096年? – 1338年
パヤオ王国はタイの最北部チェンラーイ県の西隣のパヤオ県パヤオ郡に作られた王国。
中央には水量の豊富なパヤオ湖を抱え、農作に適した台地でありながら、険しい山々に守れらた土地で、チェンラーイ県のチエンラーイ郡とチエンコーン郡以外の街とは接触が難しい地となっている。
パヤオ王国は、1096年にグンヤーン王国からチョームタムと呼ばれる王が移住し街を作ったとされる説と、1174年にシンハラート王がこの地に街を建設したとされる説があり、チョームタム王による建国だとすると、小タイ族の歴史上で最初期に属する国であり、現在一般に小タイ族による最初の国家とされるスコータイ王国の建国よりも一世紀半近くも早くなる。
1258年に即位したガムムアン王の時代、スコータイ王朝(ラームカムヘーン王)、ラーンナー王朝(マンラーイ王)と同盟を結ぶほど、パヤオは存在感を持った大国となった。
1334年ラーンナー王朝のカムフーがパヤオを支配下に加え、1338年に併合され消滅した。
その他の国家
スワンナプーム王国
ドヴァーラヴァティー王国のスパンブリーに存在した都市国家の一つであったが、877年から882年頃独立国家となったと考えられる。
ドヴァーラヴァティー王国末期は、チャオプラヤー川を挟んで東側のラヴォ王国と西側のスワンナプーム王国の2つに統合されたと考えられるがスワンナプーム王国の実態はよくわかっていない。
その後、アユタヤ王国に吸収され消滅した。
後にウートンと呼ばれるようになり、アユタヤ王朝初代王ラーマーティボーディー1世の出身地と伝えられている。
なお、タイの学校教育では紀元前より存在した国家と教えているが、国際的には認知されていない。
スワンナプーム空港はこのスワンナプーム王国にちなんで名付けられた。
※クメール王朝のジャヤーヴァルマン7世の時代に、スワンナプーム王国の名前について言及したプラサート・プラ・カーン(จารึกปราสาทพระขรรค์)と呼ばれる碑文がある。
グンヤーン王国
グンヤーン王国 (ヒランナコーン・グンヤーン、またはゴエンヤイ王国:อาณาจักรหิรัญเงินยาง)は、638年 – 1292年チェンライのメーサイ地区に存在した国家で、後のラーンナー王国となる国家。
南部のハリプンチャイ王国の影響を受け上座部仏教の国家であった。
当初よりラヴォ王国の影響下にあり、その後はラヴォ王国と同様、クメールにより支配される。
1262年クメールの支配から独立し、マンラーイがグンヤーン王として戴冠すると、1281年ハリプンチャイ王国に侵攻し、首都(現在のランプーン)を占領。
国名を「ラーンナー王国」へと改め王位に就いた。
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